筆者は縁あって天涯孤独で、家族はなく、孤児院で育てられた。父親は、幼い筆者を置いて出奔してしまった。
さて、身寄りのない筆者が、3食整った孤児院から、数えで15歳、高校1年でいきなり3畳一間の安アパートに住み、定時制に通うことになったが、これは恐らく、高度経済成長時代、働き手が喉から手が欲しいプレス工業の社長が孤児院に売り込みに行って、アパートと、住む所を手配しますからといって、筆者を引き取っていったものだろう。寝具も揃えてくれたが、代金は給料からの前払い。今思うに、孤児院は、中で生活している児童だけではなく、出ていく児童にも目を向けて欲しいものだ。いきなり、指が切断される危険な職業を紹介しなくても良いのではないか。定時制高校でも、進路指導は一度も受けたことがない。定時制高校生がいきなり、5教科受験の国立大学を目指したのだ。今考えると、無謀というものだった。大学に入って、結局筆者は身寄りがないということで、授業料免除の恩恵を受けた。返す必要のない育英制度があることも知った。そういうことが初めから分かっていたら、長い浪人時代を経験する必要がなかっただろう。アルバイトで働きながら予備校に通ったが、私立を目指していたら、1浪で済んだだろう。大事なことは、今の学力では、国立大学進学は無理であり、しかし社会にはこんな育英制度等の資金援助を受けられる制度があり、私立大学でも資金を得て大学に入学できるという情報を教えてあげる進路指導なり、カウンセリングが必要だったのだ。いわゆる情報を目的に応じて活用できる情報リテラシーを持った人の関与が必要だったのだ。
孤児院を出た筆者は、高校は定時制で勉強し、昼間は色んな仕事に就いた。最初は、15歳、孤児院からいきなり社会に出て、プレス機械で自動社部品等を作る会社で働いた。しかし、回りを見ると先輩たちのほとんどは、人差し指の先がない人が多かった。誤って指を押しつぶしてしまったのだ。そこで、当時は、ピンセットを使って部品をプレスする場所に置き、その後、ボタンを押して上から重い型のついたハンマーが降りてくるという作業方法に改められ、直接指を使わないようにと指導されてはいた。しかし、昼間は少し眠くなり、いつか指を押しつぶすのではないかと危険を感じて1年で職を辞し、定時制の仲間が勤める精密機械会社に転職した。ここでは、温度計等の精密機械を作っていて、筆者は銭湯で使われている温度計作りに携わった。当時の社長の息子は大学のワンゲル部に入っていた人で、筋肉が隆々としていて、社内で歩くときは、どしどしと歩くような感じの人であった。筆者が大学を目指していることを知ると、数学を教えてくれて、夜9時、定時制を終えた後、当時、結婚したばかりの社長の息子の家を訪れたものである。
牛乳配達、ビルのガラス拭き、新聞配達
しかし、もっと大学入試に備えて勉強する時間が欲しいと考え、次は牛乳配達に転職した。ほとんどの職員が車を運転して牛乳を運んで配達しているところ、筆者は自転車に牛乳を運んで配達した。重くて自転車が倒れることが多く、その度に、牛乳瓶を壊した。いま考えると、冷や冷やものであった。当時の社長はよく雇ってくれたものだ。定時制高校を卒業した後は、昼間は予備校に通い、夕方は清掃、昼間の空いている時間はガラス拭きに転じた。ガラス拭きの職も危険極まりなかった。勤めたのは半年ばかりであったが、たったの6か月で、二人の人がビルから落ちて大怪我をした。一人はなんと社長なのだ。ビルから落ちて、男性の機能を失う大怪我であった。危ないのは、窓から外に身を乗り出す時である。外に全体の体をあずけて、ブランコのようにガラスを拭く作業は、案外安全なのだ。ロープ二本を頼りに外に身を乗り出す。1本は親綱、1本は安全のためで、これは大きなブランコに乗っている感じで危険を感じなかった。結局、これで3浪してもまだ合格せず、新聞配達に転じてやっと通信制の大学から昼間の大学への転入に成功した。新聞配達は、朝は4時半に起きて自転車に乗って配達し、夕方も夕刊を配り、夜はちらしを新聞に入れる作業をする。月末は集金の作業があり、なかなか会えない人には、土日もなく、家々を訪ねて集金をする。しかし、週に1度は何も配達しない日があり、その時は池袋のオールナイトの5本立て映画をよく見に行ったものである。当時は若大将シリーズの映画が2回目のブームで、夕方満員の映画館では、幕が開いて、加山雄三の名前が字幕に出てくるたび、ぴーぴーと口笛やら拍手があちこちから起きた。ラブシーンもそうである。見ている人同士に共感があり、熱気があった。こんな映画の見方は前代未聞であろう。結局、大学に合格できたのは、新聞配達が一番良かった。配達が終われば、図書館に行って勉強するという毎日の習慣が合格に導いた。しかも、朝・夕食の賄いがあり、寝るところがあり、安いなりに給料も出て、大学入学費用も準備できた。親からの援助がない苦学生には新聞配達を勧めたい。
大学卒業後は外資系の損害保険会社に勤めた。日本の大企業は、親もなく、浪人も長い苦学生には冷たかった。しかし、いま考えると、日本に進入したばかりの店によく新入社員を配置したものだ。恐ろしいことに、朝出勤して仕事がないのだ。地図を開き、車で行ける所を探し、保険を扱ってくれそうな旅行代理店、中古車販売店に、いわゆる飛び込みという営業をする。すなわち約束なく訪問し、社長に会って、外資の保険を扱ってくれるように頼むのだ。話芸があるわけでもなく、話す内容もない。しかし、良くしたもので、何度か訪問すると、相手も親身になってくれる。ある時、たまたま店を新規に開店する所を見つけ、足しげく通った。たまたま社長がおられた。店に入ると、中古車を店に届けた後、足がない社長が駅まで送ってくれと頼まれ、駅まで乗せてあげたら、「代理店契約をしてもいいぞ」と言ってくれて、そのままわが社の保険会社の店までお連れして、契約して頂いた。そういうお客もいた。熱心さが相手に通じたものであろう。結局この仕事も、大方、店の回りの営業をし尽くして回る所がなくなり、保険料率の危うさも経験し、何より知り合いに保険を頼むという誰に対しても頭を下げる営業というものに向いていないと感じ、3年で教師の道に転じた。保険の営業をして、代理店になってくれた人に保険の資格を取ってもらう必要があり、保険の講師を勤めたが、そのような経験から、教師が向いているのではないかと思ったのだ。その後、社会科教師を経て、さらに大学院に入り、修了後は環境問題の調査研究のコンサルタント、さらにはシニア海外ボランティアになって4年間のタイ在住を経験することになるが、その話はまたの機会に譲りたい。
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